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メールマガジン

刀剣について:其の9

2019年02月08日

おはようございます! 
 
金曜日雑学担当、顧問の坂入です。 
 
 
インフルエンザも最盛期のようです!!! 
 
私の周辺でも数人が一週間の隔離状態を命じられて 
 
緊急の「春節休暇」でした。 
 
そのうちの一人は、年末に罹患しての「二度目のインフル」 
 
です。二度目の方が、高熱で深夜救急搬送だったようです。 
 
それも、年末もA型で今回もA型だそうです。 
 
 
マスクは毎日交換、外から戻ったら「手洗い」「うがい」、「ドアノブ 
 
は常時殺菌」、「二~三十分に一回は緑茶を飲む」・・・。 
 
予防はこれらを徹底するしかなさそうです。 
 
 
さて、気を取り直して、本来のメルマガのテーマへ・・・。 
 
 
刀剣について:其の9 
 
 
(7)山城の国:粟田口一門:藤四郎吉光「一期一振り」 
 
 
 山城の国(京都)で繁栄した「粟田口一門」の刀工は、前に述べた 
 
「青江一門」と同様に、始祖から継承した息子たちによって、一層の 
 
隆盛を見るに至りました。一門を創始した「粟田口国家」の長男「国 
 
友」、次男「久国」、三男「国安」、四男「国清」、五男「有国」のうち、 
 
3名が御番鍛冶を務めました。 
 
 
 「国安」は四月番、「国友」は六月番、「久国」は閏月番でした。 
 
御番鍛冶に任じられ、後鳥羽上皇の下に出仕した「国友・久国・国安」 
 
のうち、最高の栄誉を受けたのが次男の「久国」でした。備前の国の 
 
一文字延房共々、特命を受けて奉授剣工として上皇の作刀の相槌を 
 
全うしたことで、「日本鍛冶惣匠」となり、更には、大隅権守の受領名を 
 
授けられました。 
 
 又、弟の「国安」も後に、山城守を受領しています。 
 
 
長男「国友」と次男「久国」は建久年間(1190~1199年)、三男「国安」 
 
が正治年間(1199~1201年)、四男「国清」と五男「有国」は建仁年間 
 
(1201~1204年)の刀工だとされています。 
 
 
 長男から三男迄を平安から鎌倉初期、四男と五男は鎌倉時代に入って 
 
の刀工に位置付けられています。 
 
 
 これらの五兄弟で粟田口一門の基礎を造り、「久国」の息子の「則国」、 
 
孫の「国吉」へと技が伝承され、曾孫の「藤四郎吉光」の誕生へと継承さ 
 
れました。 
 
 
 鎌倉文化が爛熟した正元年間(1259~1260年)の「藤四郎吉光」は、 
 
粟田口一門の作刀技術を継承し、発展させ「一期一振」と名付けられた 
 
二尺八寸三分の大太刀は、豊臣秀吉の愛刀となったことで有名です。 
 
 
 秀吉は、「藤四郎吉光」、「正宗」、「郷義弘」の三名の刀工を称して「天下 
 
三名工」と称賛しました。 
 
 
 ちなみに、現存する「一期一振」は、二尺二寸八分と短く磨りあげられて 
 
います。「磨りあげる」とは、刀剣を茎から切り詰めて短く加工することで、 
 
豊臣家が大阪城の焼失によって滅亡した後、家康の命で、灰燼に帰した 
 
大阪城跡地から回収された時に、家康が寵愛したお抱え鍛冶の「越前康継」 
 
によって、焼き戻された「一期一振」を丁寧に磨きあげられて再生された際に 
 
短くされたと伝わります。 
 
 *「一期一振」の刀は、現在は「皇室御物」として伝わっています。 
 
 
  評価 ⇒藤四郎吉光・・・2,000万円~ 
 
 
<参考>後鳥羽上皇「御番鍛冶」の13工 
 
1. 一文字則宗(菊一文字) 
2. 青江貞次 
3. 一文字延房 
4. 粟田口国安 
5. 青江恒次・・・・備前守受領 
6. 粟田口国友 
7. 一文字宗吉 
8. 青江次家 
9. 一文字助宗 
10.一文字行国 
11.一文字助成 
12.一文字助延 
閏月粟田口久国・・・大隅守受領 
 
 今週は、ここまでです。来週は「来一門(らい)」と「手掻(てがい)一門」です。 
 
                          31.2.8  坂入 拝 

みつかる