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刀剣について其の33

2019年08月02日

おはようございます! 
 
金曜日のリラックス担当、顧問の坂入です。 
 
 
 
<TZC123>刀剣について其の33 
 
 
今週も、二名の刀工をお送りします。 
 
 
(34)摂津の国:一竿子忠綱 
 
 
 一竿子忠綱は、万治年間(1658~1661年)の大阪鍛冶:近江守忠綱 
 
(通称:親忠綱)の子として生まれ、刀身彫刻の名手として元禄年間(168 
 
8~1704年)の著名な刀工です。 
 
 
 忠綱が好んだ絵柄は、刀身三に対して一程度の割合で、バランスよく 
 
巻き付いた「龍」の姿を表に彫り、裏に梵字を彫ったものでした。 
 
 
 他の刀工の作に彫るだけではなく、自作の刀剣に自ら彫った際には、 
 
「彫同然」「彫物同作」という銘を刀工銘に添えています。 
 
 
 元禄新刀は、反幕意識の強い「尾張藩士」の好みに合わせた豪壮な太刀 
 
を手掛けた尾張の国(名古屋)の関鍛冶などの例外を除いて、華奢な細身の 
 
刀身が主流でした。しかし、優美で気品のある様を重視した元禄新刀も、武 
 
用刀としての機能が欠如したわけでは無く、忠綱は、作刀技術の水準も高く 
 
有名なものでは、天明四年(1784年)千代田城内(江戸城内)で勃発した、 
 
「旗本:佐野善左衛門政信」による、若年寄「田沼山城守意知」への刃傷沙汰 
 
の際に使われた大脇差が、一竿子忠綱の作だと伝わります。 
 
 
 物語風に言うならば、一介の旗本が持てる刀ではなかったことから、田沼の 
 
政敵であった老中「松平定信」が暗殺用に貸し与えたのだと言われています。 
 
 
 評価:一竿子忠綱⇒1200万円 
 
 
 
(35)尾張の国:相模守政常 
 
 
  尾張の国(名古屋)には、「尾張関」という刀工集団が存在しました。

「関」は、隣国の美濃の国(岐阜)の不破の関を言います。 
 
 
 武用刀として、室町後期以来「太刀」「刀」の一大供給地でもありました。 
 
 
 しかし、関ケ原の戦い以来大量の刀剣の需要は無くなり、多くの刀工が集住 
 
した美濃の国では、一か所に定住する事が叶わなくなり、新刀期の関鍛冶は、 
 
新天地を求めて他所へと移住しました。 
 
 
 慶長年間の「相模守政常」は、徳川御三家の一つ、尾張徳川家を頼って尾張 
 
に移った「関鍛冶」の先駆けでした。この時期以前にも、室町期にも「志賀兼延」 
 
が関から尾張に移り、那古野の「志賀」に定住して「山田関」という一門を構えた 
 
という記録も有ります。 
 
 
 新刀期の「政常」は、天正年間(1573~1592年)に「相模守」の受領名を授 
 
かり、秀吉配下の武将「福島正則」に招聘されて尾張の国の清洲に移り住み、 
 
「美濃兼常」から「政常」に改名しています。主君「福島正則」はやがて徳川家康 
 
に臣従して関ケ原の戦い以降、安芸の国(広島)へ領地替えとなりますが、「政常 
 
一門」は尾張に残りました。 
 
 
 評価:初代政常⇒900万円~、二代政常⇒600万円~ 
 
 
    今週は、ここまでです。

来週は「武蔵の国(東京:江戸)の越前康継」を・・。 
 
                     元年8月 2日    坂入 拝 

みつかる