MENU

メールマガジン

刀剣について:其の30(河内守国助)

2019年07月12日

おはようございます! 
 
金曜日リラックス担当.顧問の坂入です。 
 
 
 
<TZC120>刀剣について:河内守国助 
 
 
(30)摂津の国:河内守国助 
 
 
 新刀期の摂津の国(大阪)で活躍した刀工を総称して「大阪鍛冶」 
 
と呼びました。大阪鍛冶の祖とされるのが「河内守国助」です。 
 
 
 寛永年間の刀工で山城の国(京都)の堀川国広の門下として学び 
 
後に、摂津の国に移住して「河内一門」を創始しました。 
 
 
 万治年間(1658~1661年)の二代国助は初代国助の息子で 
 
「中河内」と呼ばれて名声を博しました。是を継承した三代国助は、 
 
天和年間(1681~1684年)の刀工で、二代国助の息子でした。 
 
 
 慶長年間(1569年~)から寛永年間(~1624年)にかけての時期 
 
を「慶元新刀期」と呼びました。慶元とは、慶長年間と元和年間(1615 
 
~1624年)の事で、此の慶長から元和にかけての30年間には、関 
 
ケ原の戦い(1600年)と大坂の陣(前後2回、冬・夏)が勃発し、元和 
 
元年(1615年)の大坂夏の陣を最後に「元和偃武」という平和な時代 
 
が到来しました。 
 
 
 合戦の記憶が新しいこの時代の武将は、その体験を基準にした、普 
 
段差しの刀剣にも実戦能力の高いものを求めました。この要望に応え 
 
たのが初代国助の師匠である「堀川国広」でした。南北朝の太刀を磨 
 
り上げたような豪壮で抜きやすい長さの実戦向きな刀剣でした。 
 
 
 この慶長年間から元和年間の作刀は、南北朝の持ち味を備えた刀 
 
(打ち刀)や脇差、短刀を指して、「慶元体佩」又は「慶元新刀」と呼ば 
 
れています。 
 
 
 「国広作」の刀で代表される「慶元新刀」に対して、「国助一門」が活躍 
 
した寛文年間の中期以降の刀を「寛文新刀体佩」或いは「寛文新刀」と 
 
呼びます。元身幅と先身幅の広い、切っ先の大きい慶元新刀は斬るの 
 
に適した構造でしたが、極端に反りが浅い先身幅の狭い寛文新刀は、 
 
斬るより突くことに適した構造でした。それは、刀術が集団による合戦 
 
での斬り合いから、日常の暮らしの変化から、室内などでの緊急時の 
 
危機管理上、刺突が有利と認識された結果だと想定されています。 
 
 
 初代国助の作刀は、師匠譲りの豪壮な慶元新刀の太刀姿が窺えま 
 
すが、一門の刀工が最も多く打ったのは、後の、寛文新刀でした。 
 
 
 評価:「初代国助」⇒800万円~ 
 
 
 今週は、此処までです。来週も摂津の国の寛永年間の刀工「助広」です。 
 
 
                 元年 7月 12日   坂入 拝 
 

みつかる