おはようございます!
金曜日雑学担当、顧問の坂入です。
インフルエンザも最盛期のようです!!!
私の周辺でも数人が一週間の隔離状態を命じられて
緊急の「春節休暇」でした。
そのうちの一人は、年末に罹患しての「二度目のインフル」
です。二度目の方が、高熱で深夜救急搬送だったようです。
それも、年末もA型で今回もA型だそうです。
マスクは毎日交換、外から戻ったら「手洗い」「うがい」、「
は常時殺菌」、「二~三十分に一回は緑茶を飲む」・・・。
予防はこれらを徹底するしかなさそうです。
さて、気を取り直して、本来のメルマガのテーマへ・・・。
刀剣について:其の9
(7)山城の国:粟田口一門:藤四郎吉光「一期一振り」
山城の国(京都)で繁栄した「粟田口一門」の刀工は、前に述べた
「青江一門」と同様に、始祖から継承した息子たちによって、
隆盛を見るに至りました。一門を創始した「粟田口国家」の長男「
友」、次男「久国」、三男「国安」、四男「国清」、五男「有国」
3名が御番鍛冶を務めました。
「国安」は四月番、「国友」は六月番、「久国」は閏月番でした。
御番鍛冶に任じられ、後鳥羽上皇の下に出仕した「国友・久国・
のうち、最高の栄誉を受けたのが次男の「久国」でした。
一文字延房共々、特命を受けて奉授剣工として上皇の作刀の相槌を
全うしたことで、「日本鍛冶惣匠」となり、更には、
授けられました。
又、弟の「国安」も後に、山城守を受領しています。
長男「国友」と次男「久国」は建久年間(1190~1199年)
が正治年間(1199~1201年)、四男「国清」と五男「
(1201~1204年)の刀工だとされています。
長男から三男迄を平安から鎌倉初期、
の刀工に位置付けられています。
これらの五兄弟で粟田口一門の基礎を造り、「久国」の息子の「
孫の「国吉」へと技が伝承され、曾孫の「藤四郎吉光」
れました。
鎌倉文化が爛熟した正元年間(1259~1260年)の「
粟田口一門の作刀技術を継承し、発展させ「一期一振」
二尺八寸三分の大太刀は、
秀吉は、「藤四郎吉光」、「正宗」、「郷義弘」
三名工」と称賛しました。
ちなみに、現存する「一期一振」は、
います。「磨りあげる」とは、
豊臣家が大阪城の焼失によって滅亡した後、家康の命で、
大阪城跡地から回収された時に、家康が寵愛したお抱え鍛冶の「
によって、焼き戻された「一期一振」
短くされたと伝わります。
*「一期一振」の刀は、現在は「皇室御物」
評価 ⇒藤四郎吉光・・・2,000万円~
<参考>後鳥羽上皇「御番鍛冶」の13工
1. 一文字則宗(菊一文字)
2. 青江貞次
3. 一文字延房
4. 粟田口国安
5. 青江恒次・・・・備前守受領
6. 粟田口国友
7. 一文字宗吉
8. 青江次家
9. 一文字助宗
10.一文字行国
11.一文字助成
12.一文字助延
閏月粟田口久国・・・大隅守受領
今週は、ここまでです。来週は「来一門(らい)」と「手掻(
31.2.8 坂入 拝