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刀剣について:その10(来と手掻)

2019年02月15日

おはようございます! 
 
金曜日、雑学担当、顧問の坂入です。 
 
 
いよいよ個人所得税:消費税の確定申告が始まります。 
 
決算準備や資料の準備はお早めに・・・。 
 
 
そんな時期でも、週末は、税に無関係な、「刀剣の話]です。 
 
 
刀剣について:その10 
 
 
(8)山城の国:来一門:二字国俊 
 
 
 来一門の最大の功績は、蒙古襲来を退けたのは「来の太刀」でした。 
 
 
 鎌倉時代中期以降、粟田口一門に代わって山城の国で台頭した刀工 
 
集団です。一門を興した「国行」(来太郎国行)は、正元年間(1259~ 
 
1260年)、息子の「二字国俊」(太郎国俊)は正応年間(1288~1293 
 
年)の刀工だと伝わります。 
 
 
 初代「国行」の名が広まったのは、元寇の時でした。文永の役(1274年) 
 
弘安の役(1281年)の際に、鎌倉幕府の要請で元寇に動員された各地の 
 
御家人は大量の武器が必要でした。そこで「国行」は、息子の「二字国俊」 
 
と協力して、大量の太刀を鍛えて日本軍の後方支援にあたりました。 
 
 
 爾来、武士階級の拵えとする「太刀」の需要が急増し、三度目の蒙古襲 
 
来に備えて、幕府は、鎮西探題を設けて九州一円の御家人の統率を図り 
 
ますが、これらの兵の増員に併せた「来」の太刀を供給したことで来一門 
 
の隆盛を見るに至ったのです。 
 
 
 足利将軍重代の秘蔵刀「不動国行」、秀吉の愛刀「釣鐘斬国行」。二字 
 
国俊は加賀前田家に伝来した「愛染国俊」の短刀などが後世に残された 
 
銘刀でしょう。 
 
 
 「国行」「二字国俊」親子の伝統を継承したのが、「来国俊」で、正応年間 
 
の刀工ながら、「国行」の息子と同名偉人とされ、後の、タイ捨流創始者

「丸目蔵人佐」が愛用したのが、この「来国俊」の太刀を摺り上げた「打刀」 
 
だったとも伝わります。 
 
 
 「来国俊」の娘婿の「国次」は、鎌倉に移住して「鎌倉来」と呼ばれ、相州 
 
伝「五郎入道正宗」に師事して、山城伝に相州伝の作風を兼ねた独自の 
 
刀工となりました。 
 
 
 五郎入道正宗に連なる名工「正宗十哲」の一人に数えられました。 
 
 
        ⇒「正宗十哲」は、後述します。 
 
 
 評価⇒二字国俊:1500~2000万円 
 
 
 
(9)大和の国:手掻包永(てがい):児手柏 
 
 
 山城の国で粟田口一門や来一門が活躍した鎌倉時代に、隣国の大和の 
 
国(奈良)で活躍したのが、正応年間の「手掻包永(てがいかねなが)」を祖 
 
とする「手掻一門」でした。 
 
 
 作風は、鎌倉時代初期の太刀姿を追求した、重ねが厚く、豪壮な太刀でし 
 
た。平安以来の「腰反り」の太刀を多く作刀し、大和伝に加えて相州伝の技法 
 
も採り入れたものでした。その特徴的なのは、「包永」は、刀身の表裏に別々 
 
の刃紋を焼き付ける技を会得しており、水戸家伝来の「児手柏(こてかしわ)」 
 
の太刀は、表の刃紋は「華美な大乱刃」、裏は「大和伝来の中直刃」でした。 
 
 
 愛刀家として高名な「細川幽斎」は、万葉集の「奈良山の 児の手柏の 両 
 
面に」という和歌にちなんで、この太刀に「児手柏」と命名したとも伝わります。 
 
 
 表とは「腰に着けたときに外側に来る方を言い」身体の腰と足に触れる方を 
 
裏と呼びました。当時の「太刀」は江戸時代のように帯に差すのではなく、下げ 
 
紐で腰につり(これを佩くといいます)ましたので、表裏は逆になります。 
 
 
 手掻一門で有名なのは、応長年間(1311~1312年)の「包氏(かねうじ)」 
 
が挙げられます。手掻一門から大和伝を会得し、後に美濃の国(岐阜)に移住 
 
して「志津三郎兼氏」と改名しました。この地で美濃伝を学び、更に、相模の国 
 
の「五郎入道正宗」の弟子となり相州伝を修めました。 
 
 
「兼氏」も正宗十哲のひとりです。 
 
 
  ・・・志津三郎兼氏については(16)で詳述します・・・ 
 
 評価⇒児手柏:1400~1600万円 
 
      31.2.15 今週は二派の話を述べました。 

 

みつかる