おはようございます!
金曜日、雑学担当、顧問の坂入です。
いよいよ個人所得税:消費税の確定申告が始まります。
決算準備や資料の準備はお早めに・・・。
そんな時期でも、週末は、税に無関係な、「刀剣の話]です。
刀剣について:その10
(8)山城の国:来一門:二字国俊
来一門の最大の功績は、蒙古襲来を退けたのは「来の太刀」
鎌倉時代中期以降、粟田口一門に代わって山城の国で台頭した刀工
集団です。一門を興した「国行」(来太郎国行)は、正元年間(
1260年)、息子の「二字国俊」(太郎国俊)は正応年間(
年)の刀工だと伝わります。
初代「国行」の名が広まったのは、元寇の時でした。文永の役(
弘安の役(1281年)の際に、
御家人は大量の武器が必要でした。そこで「国行」は、息子の「
と協力して、
爾来、武士階級の拵えとする「太刀」の需要が急増し、
来に備えて、幕府は、
ますが、これらの兵の増員に併せた「来」
の隆盛を見るに至ったのです。
足利将軍重代の秘蔵刀「不動国行」、秀吉の愛刀「釣鐘斬国行」。
国俊は加賀前田家に伝来した「愛染国俊」
銘刀でしょう。
「国行」「二字国俊」親子の伝統を継承したのが、「来国俊」で、
の刀工ながら、「国行」の息子と同名偉人とされ、後の、
「丸目蔵人佐」が愛用したのが、この「来国俊」
だったとも伝わります。
「来国俊」の娘婿の「国次」は、鎌倉に移住して「鎌倉来」
伝「五郎入道正宗」に師事して、
刀工となりました。
五郎入道正宗に連なる名工「正宗十哲」の一人に数えられました。
⇒「正宗十哲」は、後述します。
評価⇒二字国俊:1500~2000万円
(9)大和の国:手掻包永(てがい):児手柏
山城の国で粟田口一門や来一門が活躍した鎌倉時代に、
国(奈良)で活躍したのが、正応年間の「手掻包永(
とする「手掻一門」でした。
作風は、鎌倉時代初期の太刀姿を追求した、重ねが厚く、
た。平安以来の「腰反り」の太刀を多く作刀し、
も採り入れたものでした。その特徴的なのは、「包永」は、
の刃紋を焼き付ける技を会得しており、水戸家伝来の「児手柏(
の太刀は、表の刃紋は「華美な大乱刃」、裏は「
愛刀家として高名な「細川幽斎」は、万葉集の「奈良山の 児の手柏の 両
面に」という和歌にちなんで、この太刀に「児手柏」
表とは「腰に着けたときに外側に来る方を言い」
裏と呼びました。当時の「太刀」
紐で腰につり(これを佩くといいます)ましたので、
手掻一門で有名なのは、応長年間(1311~1312年)の「
が挙げられます。手掻一門から大和伝を会得し、後に美濃の国(
して「志津三郎兼氏」と改名しました。この地で美濃伝を学び、
の「五郎入道正宗」の弟子となり相州伝を修めました。
「兼氏」も正宗十哲のひとりです。
・・・志津三郎兼氏については(16)で詳述します・・・
評価⇒児手柏:1400~1600万円
31.2.15 今週は二派の話を述べました。