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刀剣について:其の18

2019年04月12日

おはようございます! 
 
金曜日リラックス担当、顧問の坂入です。 
 
 
<TZC108>刀剣について:其の18 
 
 
(17)筑前の国:左(さ:左文字:正宗十哲の一人) 
 
 
 茎(なかご)の銘に「左」の一文字が刻まれたことから「左文字」 
 
の通称が付きました。 
 
 
元応年間(1319~1321年)の刀工の一門で、鎌倉時代後期、 
 
筑前の国(福岡)の博多で繁栄した「左」の一門は、正宗十哲の 
 
最上位だと評されました。 
 
 
 正宗の相州伝を学んだ「左一門」は九州有数の刀工集団でした。 
 
最も有名な太刀として、戦国大名の今川義元愛用の「宗三左文字」 
 
の太刀です。左文字一門は短刀に多くの名物を遺しました。刀身の 
 
寸法が短めで身幅の狭い、僅かに反った「左文字姿」という形を確 
 
立させています。 
 
 
 南北朝時代に入ると、左一門は分派します。足利尊氏が朝廷に反 
 
旗を翻して九州に侵攻しますが、後醍醐天皇を奉じた「北畠一族」に 
 
敗れた足利尊氏は、九州に逃れて自軍の再編成を目論見、これに 
 
抵抗した肥後の国(熊本)の菊池武敏は、肥後勤王軍を組織して、「 
 
左」一門は、この勤王軍に従いました。 
 
 
 刀工として武器調達を行うのではなく、兵としての従軍でした。 
 
 
 しかし、勤王軍は建武三年(1336年)尊氏軍に敗れ、「左一門」は 
 
敗走して博多を脱出し、脱出先で刀工として再起を図りました。 
 
 
 落ち延びた先は、肥前の国(佐賀)の大石、長門の国(山口)の二 
 
か所でした。「平戸左」「大石左」「長州左」等と呼ばれ分派したのです。 
 
 
 この時、筑前に隠れ残った集団を「筑前左」と呼びました。 
 
筑前左と平戸左は、建武年間(1334~1336年)、大石佐は永享年間 
 
(1429~1441年)、長州左は建武年間から貞治年間(1361~1368 
 
年)の刀工集団だとされています。 
 
 
  評価 ⇒左文字 1500万円~ 
 
 
 今週はここまでです。来週は、肥後の国の延寿国村(菊地千本槍)です。 
 
           31.4.12  坂入 拝 

みつかる