MENU

メールマガジン

刀剣について:その11(保昌一門)

2019年02月22日

おはようございます! 
金曜日、雑学担当、顧問の坂入です。 
 
 
先週の2月15日:山城の国の「来」と大和の国の「手掻」の刀工の話で 
 
私からの「TZC:メルマガ・・雑学;チャンバラ小説から」は、百回目を迎 
 
えました! 
 
 
平成29年1月27日にスタートしました私からのメルマガも、あっという間 
 
に2年目を迎えていました。私からの勝手な文章です・・・。 
 
 
今後も、週末の息抜きに、ご一読いただければ幸いです。 
 
 
TZC<101回>:刀剣について:その11 
 
 
(10)大和の国:保昌一門 
 
 
 平城京が置かれていた大和の国(現在の奈良)には、遠い過去に 
 
おいて刀工の集団が存在したと伝わります。「天国」「天座」とも言わ 
 
れる最古の刀工集団だと言われており、大和の国は刀工の歴史が 
 
最古と言われる由縁です。 
 
 
 鎌倉時代の大和の国は、千手院、手掻、当麻、保昌、尻懸の「大和 
 
五派」という刀工の集団が活躍したとも言われています。 
 
 
 武士集団の幕府とは一線を隔した寺社勢力が維持されていた大和 
 
の地は、僧兵用の武具として、「刀剣や槍、薙刀」等の需要が高かっ 
 
たことから、大和各地の寺社に隷属する刀工が鍛刀していたのだと 
 
伝わります。 
 
 
 隷属と表現したように、当時の刀工の社会的地位は低く、他国へ 
 
移住する者が多く、その結果として「大和伝」なる技術が諸国に伝播 
 
して行ったのだとも言われています。 
 
 
 鎌倉時代中期の刀工であった「保昌国光」から家業を継いだ「貞宗 
 
・貞吉」の兄弟は、大和国内に止まって大和伝の作刀を伝承した「保 
 
昌一門」の開祖だと言われています。 
 
 
 時代は、文保年間(1317~1319年)の刀工だったとされ、現在の 
 
橿原市に定住して鎌倉末期から南北朝期まで続いたと伝わります。 
 
 
 この一門の刀で現存するのは、殆どが「短刀」のみとなっています。 
 
「太刀」を手掛けなかったわけではなく、大摺り上げされて「銘」が失わ 
 
れた結果だと言われ、一気に抜き上げることが求められた江戸時代 
 
、二尺二寸の定寸の「打ち刀」が主流となったために、長い太刀を、茎 
 
から切り詰めて摺り上げた際に、茎に切られていた「保昌」の銘が無く 
 
なり、現存の刀から「保昌」の作と言う判断が出来なくなったからだと伝 
 
わります。 
 
 
 相州伝が主流となった時代には、頑なに「大和伝」を守った一門という 
 
評価を得ています。作風は、「柾目肌」と言う地肌に特徴があり、太刀姿 
 
は、鎌倉期末期の姿で、反りが浅く、身幅が広いことでしょう。 
 
 
 「貞宗」の子「貞吉」、その弟「貞清」、貞清の子「貞興」と継承され、その 
 
一族から出た「貞継」「貞行」「貞光」等が伝えられています。 
 
「貞継」の太刀は徳川家秘蔵の逸品だとされ、後に、加賀前田家に伝来 
 
され「名物桑山」と「大保昌」の短刀が著名です。 
 
 評価:「貞宗」⇒800万円~ 
 
 
 
        31.2.22   坂入 拝 
 
*来週は「鬼丸国綱」の相模の国の「左近国綱」です。 

みつかる