おはようございます!
金曜日のリラックス担当、顧問の坂入です。
<TZC123>刀剣について其の33
今週も、二名の刀工をお送りします。
(34)摂津の国:一竿子忠綱
一竿子忠綱は、万治年間(1658~1661年)の大阪鍛冶:近
(通称:親忠綱)の子として生まれ、刀身彫刻の名手として元禄年
8~1704年)の著名な刀工です。
忠綱が好んだ絵柄は、刀身三に対して一程度の割合で、バランスよ
巻き付いた「龍」の姿を表に彫り、裏に梵字を彫ったものでした。
他の刀工の作に彫るだけではなく、自作の刀剣に自ら彫った際には
「彫同然」「彫物同作」という銘を刀工銘に添えています。
元禄新刀は、反幕意識の強い「尾張藩士」の好みに合わせた豪壮な
を手掛けた尾張の国(名古屋)の関鍛冶などの例外を除いて、華奢
刀身が主流でした。しかし、優美で気品のある様を重視した元禄新
用刀としての機能が欠如したわけでは無く、忠綱は、作刀技術の水
有名なものでは、天明四年(1784年)千代田城内(江戸城内)
「旗本:佐野善左衛門政信」による、若年寄「田沼山城守意知」へ
の際に使われた大脇差が、一竿子忠綱の作だと伝わります。
物語風に言うならば、一介の旗本が持てる刀ではなかったことから
政敵であった老中「松平定信」が暗殺用に貸し与えたのだと言われ
評価:一竿子忠綱⇒1200万円
(35)尾張の国:相模守政常
尾張の国(名古屋)には、「尾張関」という刀工集団が存在しまし
「関」は、隣国の美濃の国(岐阜)の不破の関を言います。
武用刀として、室町後期以来「太刀」「刀」の一大供給地でもあり
しかし、関ケ原の戦い以来大量の刀剣の需要は無くなり、多くの刀
した美濃の国では、一か所に定住する事が叶わなくなり、新刀期の
新天地を求めて他所へと移住しました。
慶長年間の「相模守政常」は、徳川御三家の一つ、尾張徳川家を頼
に移った「関鍛冶」の先駆けでした。この時期以前にも、室町期に
が関から尾張に移り、那古野の「志賀」に定住して「山田関」とい
という記録も有ります。
新刀期の「政常」は、天正年間(1573~1592年)に「相模
かり、秀吉配下の武将「福島正則」に招聘されて尾張の国の清洲に
「美濃兼常」から「政常」に改名しています。主君「福島正則」は
に臣従して関ケ原の戦い以降、安芸の国(広島)へ領地替えとなり
一門」は尾張に残りました。
評価:初代政常⇒900万円~、二代政常⇒600万円~
今週は、ここまでです。
来週は「武蔵の国(東京:江戸)の越前康継」を・・。
元年8月 2日 坂入 拝