おはようございます!
金曜日リラックス担当、顧問の坂入です。
<TZC124>刀剣について:其の34
(36)武蔵の国:越前康継
徳川家康のお抱え鍛冶として、慶長年間の刀工として名声を
博した「初代康次」(通称:越前康継)は、大和千手院派の末裔
だとも伝わります。
天正年間に生国の「近江の国(滋賀)」から越前の国(福井)
下坂に移住し「下坂鍛冶」の祖となりました。
名声の原因となったのは、元和元年の「大坂夏の陣」で炎上
した大阪城内に有った、秀吉が収集した多くの名刀(例えば、
正宗・藤四郎吉光等々)が灰燼に帰しました。これらの大阪城
に秘蔵された多くの名刀を焼け跡から掘り出して、家康の命で
修復したのが康継でした。
家康の命で、業火に焼かれた、見るも無残な姿となった名剣
を、焼け身の形を打ち直して整え、焼を入れ直し、失われた刃
文を再現すると言う困難な作業を完遂しました。
これを「再刃(さいじん)」と言います。
一説では、この時期に武功を挙げた武将へ褒賞として下賜した
「正宗・貞宗・初代信国」等の名刀を、この再刃作業で名工の技術
を習得した康継にそっくりに偽作させたとも言われています。
康継は、古刀の作風を完璧に再現する技術を会得していたか
らこそ、偽作を指示され、これを受けたのだともいわれています。
康継の作刀には、茎に「葵の紋」を切ることが許されていたこと
から、「葵下坂」「御紋康継」などと称されています。
本来は家康の次男「結城秀康」に仕える刀工でした。越前に定
住したのも、越前の国:北の庄の領主となった「結城秀康」に従っ
たからでした。
慶長8年(1603年)駿府城(静岡)
褒美として「康」の文字と「葵紋」
を受けるようになります。
寛永年間の「二代康継」以降は、江戸に定住しますが、代々当主
は、隔年で参勤交代するかのように、越前に赴き、現地での作刀を
務めました。三代目の継承時に揉めて、決裂し、二代康継の子が、
「江戸三代」、二代康継の弟が「越前三代」
初代康継の代表作「三体仏小脇差」には、「西の埋忠、東の記内」
と謳われ、刀身彫刻の名人「越前記内の不動尊」や「記内知助の薬
師如来・毘沙門天・梵珠菩薩」などが遺されています。
評価:初代康継⇒1300万円~
二代康継⇒800万円~
今週はここまで、・・・再来週は大和守安定と長曽祢虎徹を・・・
元年8月9日 坂入 拝
追伸:来週(8月16日金曜日)は、