おはようございます!
金曜日リラックス担当.顧問の坂入です。
<TZC120>刀剣について:河内守国助
(30)摂津の国:河内守国助
新刀期の摂津の国(大阪)で活躍した刀工を総称して「大阪鍛冶」
と呼びました。大阪鍛冶の祖とされるのが「河内守国助」です。
寛永年間の刀工で山城の国(京都)の堀川国広の門下として学び
後に、摂津の国に移住して「河内一門」を創始しました。
万治年間(1658~1661年)の二代国助は初代国助の息子で
「中河内」と呼ばれて名声を博しました。
天和年間(1681~1684年)の刀工で、
慶長年間(1569年~)から寛永年間(~1624年)
を「慶元新刀期」と呼びました。慶元とは、慶長年間と元和年間(
~1624年)の事で、
ケ原の戦い(1600年)と大坂の陣(前後2回、冬・夏)
元年(1615年)の大坂夏の陣を最後に「元和偃武」
が到来しました。
合戦の記憶が新しいこの時代の武将は、その体験を基準にした、普
段差しの刀剣にも実戦能力の高いものを求めました。
たのが初代国助の師匠である「堀川国広」でした。
り上げたような豪壮で抜きやすい長さの実戦向きな刀剣でした。
この慶長年間から元和年間の作刀は、南北朝の持ち味を備えた刀
(打ち刀)や脇差、短刀を指して、「慶元体佩」又は「慶元新刀」
れています。
「国広作」の刀で代表される「慶元新刀」に対して、「国助一門」
した寛文年間の中期以降の刀を「寛文新刀体佩」或いは「
呼びます。元身幅と先身幅の広い、
に適した構造でしたが、
斬るより突くことに適した構造でした。それは、
での斬り合いから、日常の暮らしの変化から、
危機管理上、刺突が有利と認識された結果だと想定されています。
初代国助の作刀は、師匠譲りの豪壮な慶元新刀の太刀姿が窺えま
すが、一門の刀工が最も多く打ったのは、後の、寛文新刀でした。
評価:「初代国助」⇒800万円~
今週は、此処までです。来週も摂津の国の寛永年間の刀工「助広」
元年 7月 12日 坂入 拝