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刀剣について:其の25(孫六と兼定)

2019年06月07日

おはようございます! 
 
金曜日雑学リラックス担当、顧問の坂入です。 
 
 
 
<TZC115>刀剣について:其の25 
 
今週は、美濃の国の関鍛冶の二大名工を記述します。 
 
一人は「関の孫六兼元」、もう一人は「和泉守兼定」です。 
 
 
 
 
(24)美濃の国:孫六兼元(関の孫六) 
 
 
 美濃の国(岐阜)に刀工が集住したのは、室町時代中期以降だと 
 
伝わります。この時期の物は「末関物」と呼ばれています。 
 
 
 関の刀剣は、「数打ち物」と呼ばれる、所謂、量産品が多く遺りま 
 
す。特に、「対明物」として明の国(中国)への輸出用として、加えて 
 
応仁の乱以降の戦後乱世の集団戦の足軽用の武用刀として需要 
 
に応える大量生産だったと言われています。 
 
 
 こんな中で、永正年間(1504~1521年)の刀工「孫六兼元」は、 
 
兼元一門の二代目(孫六としては初代)で、義兄弟の「和泉守兼定」 
 
と共に、戦国時代の関鍛冶を代表するようになります。 
 
 
 作風の特徴は「三本杉」という刃紋を生み出していることです。この 
 
刃紋は、一門の代名詞にもなり、孫六の銘を継承した代々の刀工は 
 
「三本杉の刃紋」をより一層強調して行きました。又、見た目の美しさ 
 
だけでなく、戦国乱世に栄えた要因の最大の特徴は、凄まじいまで 
 
の切れ味だったとも伝わります。 
 
 
 加賀前田家に伝わる孫六作の「二念仏」と言う一振りが有ります。 
 
前田利家の次男「利政」が慶長三年(1598年)に、行列の先を横切 
 
った者を無礼討ちにした際、討たれた者が、念仏を二度唱えてから 
 
真っ二つになって落命したという伝説の名刀でした。 
 
 
 江戸時代の御様御用首切り役の「山田朝右衛門」の「懐宝剣尺」 
 
と追加発行された「古今鍛冶備考」という刀剣のランク付け文書で、 
 
最終的に選ばれた「最上大業物」とされたのは、古刀からは「孫六 
 
兼元」と「和泉守兼定」等だけでした。 
 
 評価 ⇒ 関の孫六:1500万円~ 
 
 
 
(25)美濃の国:和泉守兼定 
 
 
 美濃の国の兼定一門の二代目「兼定」は、前述のように義兄弟の「孫 
 
六兼元」と同時代の刀工で、孫六と同様に戦国時代の関鍛冶を代表す 
 
る双璧だったと伝わります。 
 
 
 初代「兼定」の子として生まれ「之定」と称され、「之定」の銘で作刀

し、後に、和泉守の受領名を受けて二代目「兼定」となっています。 
 
 
 三代目「兼定」は、銘に「定」の字のウ冠を略して「疋」と刻んだことから 
 
「疋定:ひきさだ」とも呼ばれています。初代を「親兼定」、二代目を「和泉 
 
守兼定」、三代目を「疋定」と呼んでいます。 
 
 
 山田朝右衛門から最上大業物と評価されるほどの切れ味だけでなく 
 
闘争の無くなった江戸時代の武将から観賞用としても最高の評価を得て 
 
一門への需要が多くなり、茎に注文名や所持者名を刻ませたとも伝わり 
 
ます。「和泉守兼定」の特徴は、寸が詰まっている二尺そこそこの刀身の 
 
刀が多く、平安な江戸時代での危急時に鞘から抜き打ちしやすいことが 
 
求められたからだとも伝わっています。 
 
 
 *参考:戦国時代の合戦場では、「一挙動で抜刀し、そのまま抜いた 
 
 手で斬撃を浴びせるという、片手打ちという刀法が一般化しました。 
 
 後述する「胴田貫一門」の作刀にも当てはまりますが、二尺二寸前後 
 
 の刀身の長さを「定寸」、つまり、一般的な長さとした戦国期末期は、 
 
 片手で刀を振るう場面が多かったようです。それまでの「太刀」は、刃 
 
 を下に向けて佩刀、つまり、腰に吊るして携行したため、一挙動では 
 
 抜き打つことは不可能でした。刃を上向きにして腰帯に差す打ち刀は 
 
 容易に抜刀可能で、左手を柄に添えることなく、鞘で調整しながら、抜 
 
 いた時そのままの角度で初太刀を浴びせることが可能(片手打ち)な 
 
 のは、此の二尺二寸前後の刀身が最適だったのでしょう。 
 
 
 参考:幕末の刺客で高名を博した「人斬り半次郎」こと、野太刀自顕流 
 
     の「中村半次郎」(桐野利秋)の終生の愛刀が、この「兼定」の一 
 
     振りだったと伝わります。 
 
 
 評価:兼定 ⇒1500万円~ 
 
 今週は、ちょっと長くなりました、悪しからず・・・。 
 
 来週は、子連れ狼:拝一刀の愛刀「胴田貫」を・・・。 
 
       元、6、 7  本日は、私73歳の誕生日です・・・坂入 拝