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刀剣について:其の27:埋忠明壽

2019年06月21日
おはようございます! 
 
金曜日リラックス担当、顧問の坂入です。 
 
 
 
< TZC117>刀剣について:其の27 
 
 
(27)山城の国:埋忠明壽(新刀期の祖、刀身彫刻の美) 
 
 
 刀剣史では、平安時代から安土桃山時代の慶長元年(1596年) 
 
までを「古刀期」、慶長元年から江戸時代中期の安永年間(1772 
 
~1781年)の末までを「新刀期」と呼んでいます。 
 
 
 埋忠明壽は、この「新刀期」の慶長年間(1596~1615年)

山城の国(京都)の刀工で、「新刀」の祖と呼ばれています。 
 
 
 「新刀」の特徴は、刀(打ち刀)は刀身が二尺三寸前後、脇差は

一尺六寸前後が標準的なものとなったことでしょう。しかし、反りが浅く 
 
身幅が広く、重ねが厚いという実践志向であったことは、古刀期の 
 
太刀と同様でしたが、戦国乱世の終焉とともに、剣術が屋外戦から 
 
屋内を想定したものへと変遷したように、刀剣もまた合戦用から非 
 
常時の危急用に、つまり、危機管理上の備えと目的も変化しました。 
 
 
 埋忠一門の作刀は、姿が美しく、寸が詰まっており、反りが浅く、 
 
品位が高いものとの評価を得ました。強く、切れ味の良いものよりも 
 
美しく精巧かつ緻密な刀身彫刻、加えて、垂を始めとする「拵え」

金工などの技が評価されています。 
 
 
 刀身に装飾を刻む慣習は、奈良・白鳳時代の金象嵌から始まり、 
 
平安時代は刀身に直に刻むようになり、鎌倉時代から南北朝にかけ 
 
ては「不動明王」や「梵字」などの密教的モチーフを好む武将が現れ、 
 
本来、武用刀としては刀身に彫り物を施すことは無用の事でしたが、 
 
合戦に勝利し、現世利益を求める信仰心を武士の象徴でもある刀剣 
 
に表現することは、装飾ではなく心の顕れだったと言われています。 
 
 
 世情が安定した時代の埋忠一門の時代、つまり、武用刀としての 
 
役割が終った時代だからこそ、評価を得たものと思われます。 
 
 
 埋忠明壽の門下から、天和年間(1681~1684年)の「東山美平」 
 
を始めとする、多くの名匠が輩出されました。 
 
 
 短く磨り上げられた古刀の茎に、刀剣極所(とうけんきわめどころ) 
 
の本阿弥家が出した鑑定結果を、象嵌銘で記すことも許されており 
 
その記録は「埋忠銘鑑」として纏められています。 
 
 評価:明儒⇒1300万円~ 
 
 
 今週はここまでです。来週は同じ山城の国の「堀川国広」

を取り上げます。

元、 6、 21   坂入 拝 
 
 
 

みつかる