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刀剣について:其の34(越前康継)

2019年08月09日

おはようございます! 
 
金曜日リラックス担当、顧問の坂入です。 
 
 
 
<TZC124>刀剣について:其の34 
 
 
(36)武蔵の国:越前康継 
 
 徳川家康のお抱え鍛冶として、慶長年間の刀工として名声を 
 
博した「初代康次」(通称:越前康継)は、大和千手院派の末裔 
 
だとも伝わります。 
 
 
 天正年間に生国の「近江の国(滋賀)」から越前の国(福井) 
 
下坂に移住し「下坂鍛冶」の祖となりました。 
 
 
 名声の原因となったのは、元和元年の「大坂夏の陣」で炎上 
 
した大阪城内に有った、秀吉が収集した多くの名刀(例えば、 
 
正宗・藤四郎吉光等々)が灰燼に帰しました。これらの大阪城 
 
に秘蔵された多くの名刀を焼け跡から掘り出して、家康の命で 
 
修復したのが康継でした。 
 
 
 家康の命で、業火に焼かれた、見るも無残な姿となった名剣 
 
を、焼け身の形を打ち直して整え、焼を入れ直し、失われた刃 
 
文を再現すると言う困難な作業を完遂しました。 
 
 
 これを「再刃(さいじん)」と言います。 
 
 
一説では、この時期に武功を挙げた武将へ褒賞として下賜した 
 
「正宗・貞宗・初代信国」等の名刀を、この再刃作業で名工の技術 
 
を習得した康継にそっくりに偽作させたとも言われています。 
 
 
 康継は、古刀の作風を完璧に再現する技術を会得していたか 
 
らこそ、偽作を指示され、これを受けたのだともいわれています。 
 
 
 康継の作刀には、茎に「葵の紋」を切ることが許されていたこと 
 
から、「葵下坂」「御紋康継」などと称されています。 
 
 
 本来は家康の次男「結城秀康」に仕える刀工でした。越前に定 
 
住したのも、越前の国:北の庄の領主となった「結城秀康」に従っ 
 
たからでした。 
 
 
 慶長8年(1603年)駿府城(静岡)で家康の佩刀を鍛えたことから 
 
褒美として「康」の文字と「葵紋」を与えられと古都から家康の恩顧 
 
を受けるようになります。 
 
 
 寛永年間の「二代康継」以降は、江戸に定住しますが、代々当主 
 
は、隔年で参勤交代するかのように、越前に赴き、現地での作刀を 
 
務めました。三代目の継承時に揉めて、決裂し、二代康継の子が、 
 
「江戸三代」、二代康継の弟が「越前三代」と分派して決着しました。 
 
 
 初代康継の代表作「三体仏小脇差」には、「西の埋忠、東の記内」 
 
と謳われ、刀身彫刻の名人「越前記内の不動尊」や「記内知助の薬 
 
師如来・毘沙門天・梵珠菩薩」などが遺されています。 
 
 
 評価:初代康継⇒1300万円~ 
     二代康継⇒800万円~ 
 
 今週はここまで、・・・再来週は大和守安定と長曽祢虎徹を・・・。 
 
                    元年8月9日  坂入 拝 
 
追伸:来週(8月16日金曜日)は、お盆で夏休みとさせて頂きます。 

みつかる