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征夷大将軍について(第2回)(2018/02/09)


 

 

 

 

おはようございます!
東京税経センター顧問の坂入です。

金曜日は、税務や会計のことは横に置いて、右脳の刺激を
チャンバラ小説からの雑学で!!!

 

征夷大将軍の2回目です。

 

先週述べましたように、徳川慶喜は歴史的には、約千年続いた

「征夷大将軍」の45代目であったと言われています。

 

初代は「大伴弟麻呂」、2代は「坂上田村麻呂」で、その職制で

ある「征夷大将軍」を歴史上有名にしたのが「蝦夷征伐」での

蝦夷(えみし)の抵抗軍の頭領「阿弖流為(あてるい)」との永い

戦いでした。

 

平安京へ遷都した桓武天皇の時代は、大陸から仏教文化が

伝わり、寺院や仏像が盛んに建立された時代でした。この時

表面を金箔で装いました。当時の日本には「金」の算出は報

告されておらず、金箔は大陸からの輸入に頼りました。

 

ところが、それまで原始的先住民の国と見なされていた「陸奥の

国の蝦夷の地(現在の宮城県北部の黄金山神社近辺)」から、

金産出の報がもたらされ、増産と供出を出先機関である「多賀城」

の行政官(鎮守府将軍)に命じましたが、朝廷の意向が住民に

よく伝わらず、迫害と強制労働のみの結果を生み出したことから、

多賀城の行政官に対する先住民の反抗を招きました。

 

蝦夷(えみし)は、都の人々からは、「朝廷の支配の及ばない狩

猟を生業とする野蛮な先住民族」と一種の差別感を抱かれて理

解されていました。蝦夷の土豪の人々は、身分を蔑まされたうえ

に金の産出のための苦役に従事させられることに反発し地域的

ゲリラ戦で反抗しました。

 

朝廷は、過去の九州征伐の際に任命した「征隼人大将軍(せい

はやとだいしょうぐん)」と同役の「征夷大将軍(せいいだいしょう

ぐん)」を任命して、武力で蝦夷の征討を命じました。

・・・これが「征夷大将軍」の始まりです・・・

<陸奥の国の行政官>
征夷大将軍任命以前のもの
709年(和同2年) 鎮東将軍      巨勢麻呂
720年(養老4年) 持節征夷将軍   田治比県守
724年(神亀元年) 持節大将軍    藤原宇合
734年(天平9年) 持節大使      藤原麻呂
780年(宝亀11年) 征東大使      藤原継縄
780年(宝亀11年) 持節征東大使  藤原小黒麻呂
784年(延暦3年) 持節征東将軍   大友家茂
788年(延暦7年) 征東将軍      紀古佐美

*持節将軍の「持節」については、後述します。

⇒791年(延暦10年)初代征夷大将軍    大伴弟麻呂
797年(延暦16年)二代征夷大将軍    坂上田村麻呂

・・・この後、征夷大将軍は任命されずに、陸奥の国の行政官は、
「811年征夷将軍:文室綿麻呂」
「940年征東大将軍:藤原忠文」
「1184年征東大将軍:源義仲」
が任命されたにすぎませんでいた。つまり、第三代征夷大将軍は

鎌倉幕府の「源頼朝」で復活したのでした。

 

ちなみに「持節」とは、朝廷軍の指揮官には大王から「節刀」と呼ば

れた権威の象徴としての直刀の「剣」が貸与されていました。征討が

終わり都に凱旋すると、指揮官から大王に「節刀」を返納したと言わ

れています。

今回は、「征夷大将軍」の謂れを簡単に述べました。

次回からは、復活した鎌倉幕府の征夷大将軍以降を簡記した
いと考えています。

30.2.9 金曜日雑学担当 坂入 拝

 

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