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忠臣蔵の真実(第3回)(2017/12/01)


 

 

 

 

おはようございます!
東京税経センター顧問の坂入です。

いよいよ今年もあと1ヶ月!

営業は、年末の挨拶廻りと数字のラストスパートへ!

経理は、ボーナス資金の手当てと社員の年末調整を!

そんな気忙しいこの時期に、のんびりと「忠臣蔵」です??

 

忠臣蔵の真実:3回

 

<吉良家は高家筆頭>

 

江戸に幕府を開いた徳川家康は、名家の武人から人選して朝廷と幕府を

仲介・調整或いは戦国乱世に育った荒武者に礼儀作法を指導する「高家」

という制度を設け、室町幕府以来の名家であった「吉良義定」をその高家筆

頭に取り立てました。

 

「高家」の役割は、下克上の戦乱の権謀術策にまみれた血なまぐさい戦場

往来の時代を掻い潜ったきた諸国の猛々しい武将や大名・旗本に儀礼や礼節

を教え、朝廷に対しては武威をもって江戸幕府による統制を押し付ける役目を

命じました。つまりは、幕府執政上の重職ではなく、対外的には重要そうでも、

中身のないお飾り的職制に置いたのです。

 

<吉良家の領地は徳川発祥の地と隣接>

 

旧矢作川(矢作古川)は、家康の領地である岡崎から下流域の吉良庄を縦

断して三河湾に流入しています。旧矢作川の歴史は、河川で運ばれた肥沃

な砂州で干潟を形成すると、その浜辺を塩田として開き、ある程度の砂州が

堆積するとやがては干拓して耕地とし、干拓された耕地の先には再び塩田が

設けられるという繰り返しによって、河口部は沖合へと拡大、つまり、豊饒な

領地が拡大する歴史が確認されます。

 

つまり、上記のような繰り返しで300年以上の間、豊饒な領地を拡大してき

たのが「吉良領」です。一方の、上流部に隣接した岡崎では、勢力拡大策で、

隣接地である吉良領の状況を知った家康は、自領地内の旧矢作川の氾濫防

止、農業用水の安定的確保等のため下流部の付け替えを計画しますが、前述

の状況から、吉良家を将軍位勅命を受ける調整役を命じたことから、調整が終

わるまでは吉良庄との軋轢を避ける意味合いで、治水工事等の着手を延ばし

て来たのです。

 

現在の地図を見ると、旧矢作川(矢作古川)から枝分かれして、現在の矢作川

が開削されて碧海台地を抜けて三河湾に直接注ぎ込んでいます。この工事は、

二代将軍秀忠への将軍宣下の行われた後、つまり、吉良家の朝廷対策の役目

が終了すると直ちに家康によって着工されたものでした。新しく開削された矢作

川の河口部(徳川領)では、従来の吉良領時代に繰り返されたように、前浜では

塩田、堆積砂州が拡大すれば耕作地にと豊饒な領地拡大の夢を実現したので

す。結果として、吉良領の旧矢作川河口部は廃れました。

 

一方では、圧倒的な権力者となった家康は、将軍職の徳川世襲制度確立の第一

の功労者であることが周知の事実であったことから、吉良家を抹殺することが不

可能でした。せいぜい矢作川の付け替え程度で我慢せざるを得なかったのです。

 

本音は、徳川家発祥地の目の上のたんこぶ的な吉良領を自領地にしたかった!

一方では、将軍宣下のためには必要であった室町以来の「吉良家」の権威という

幕府内での本音と建前の狭間に屈折した事情が窺い知ることが出来ます。

 

幕府創設以来の百年の計が「吉良家抹殺」?

・・・・・いよいよ忠臣蔵の背景が見えてきます!  来週をご期待ください。

 

 


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