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忠臣蔵の真実2回(2017/11/24)


 

 

 

 

おはようございます!
東京税経センター顧問の坂入です。

毎朝のメルマガは、硬い税務や経営の話だけを読み続
けると肩が凝ってきます。

週末の朝は、税務の話ではなく、わたくし個人の勝手な
趣味となっています「チャンバラ小説・時代劇小説」から・・・。
興味が無い皆さんにも、「こんな見方もあるのだなー」
と・・・・・斜めに読み流していただければ幸いです。

 

忠臣蔵の真実2回:徳川幕府はこう利用した!

 

徳川一門の吉良家忌避の要因

 

歴史をちょっと遡及しますと、鎌倉時代の1221年の承久の乱の後、源氏の名門

であった足利義氏が三河の守護となって、吉良庄の地頭職を兼務することになり

ました。その後、鎌倉後期から室町時代を通じて「吉良姓」を名乗って、現在の「

西尾市(旧吉良町)」、旧矢作川(矢作古川)下流部を支配してきました。

 

温暖な気候と矢作古川を利用した「塩田」を作って、砂州が堆積しこれを干拓し

て農耕地を拡大して、吉良家にとって豊饒な所領地となっていました。

200年後の1441年、将軍「足利義教」が暗殺されると、吉良庄の「吉良義尚」

が将軍の代理を務めるほどの名門中の名門となっていました。

 

時代は下克上の戦国時代に入って、吉良家から分離した「今川氏」は、その武

力で三河地方を制圧して勢力を拡大します。一方、この地域は、後に、今川氏と

織田氏の衝突する最前線となります。

この両氏の間で翻弄されたのが、ご承知の通り、吉良庄の北部、岡崎の小さな

領主であった「松平(後の徳川)」の嫡子であった「家康」です。

・・・大河ドラマ「女城主:直虎」の井伊家の領地は、この徳川の更に北に位置し
ていました。・・・

 

1542年に岡崎に生まれた家康は、松平家の生き残りのため、ある時期は

織田家の人質に、ある時は今川家の人質に取られて、幼少期から戦国時代

の波に翻弄されて育ちました。

 

1560年の「桶狭間の戦い」で今川義元が戦死して、人質として今川陣営に居

た家康はようやく解放され、念願かなって岡崎城に復帰入城できました。

その家康は織田信長との同盟の下で、各地を転戦し戦国大名として徐々に勢力

を拡大することになります。

 

当然に、隣接する旧矢作川下流部の吉良家も制圧の対象となり、これを攻略

し一旦吉良家を倒しますが、家康は、吉良家の出自と朝廷への影響力を利用

すべく吉良義定とその子供の吉良義弥を生かして、臣下に取り込みます。

 

1600年の関ヶ原の戦いから後の3年間、家康は江戸に戻らずに、武士の

頭領たる「征夷大将軍」の宣下を朝廷から受けるために京の二条城で待ち続け

ました。

この間、自らの松平家の出自は「清和源氏の末裔」と称させたうえで、朝廷への

働きかけに、何百年もの間、足利一門として朝廷と交流を持った吉良家を、近侍

する旗本として処遇して、徳川家の将軍宣下の仲介をさせたのです。

 

1603年念願の征夷大将軍の宣下を受けますが、家康は新たに開いた幕府の

継承は徳川家との意識を各国の大名に持たせるため、直ちに「秀忠」への将軍職

の移譲を、吉良家の仲介で朝廷に認めさせました。

 

1605年秀忠への将軍宣下を得て、征夷大将軍の徳川世襲体制が確立します。

 

・・・ここに、徳川家の吉良家への負い目が発生したのです・・・

 

29.11.24    今週は、ここまでです!

 

 


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