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千葉の偉人(第2回)(2017/10/20)


 

 

 

おはようございます!
東京税経センター顧問の坂入です。

毎朝のメルマガは、硬い税務や経営の話だけを読み続
けると肩が凝ってきます。

週末の朝は、税務の話ではなく、わたくし個人の勝手な
趣味となっています「チャンバラ小説・時代劇小説」から・・・。
興味が無い皆さんにも、「こんな見方もあるのだなー」
と・・・・・斜めに読み流していただければ幸いです。

 

<千葉の偉人:その1「伊能忠敬」について>2回

2・伊能忠敬のこと

時代は、鎖国崩壊へ

時代背景と経緯

徳川将軍「家治」の時代、実権を握っていたのは「田沼意次」でした。

その政治が目指したのは「農本主義経済(米中心の経済)から商業

主義経済(貨幣経済)への転換」による「幕府財政と武士の暮らしの再

建」でした。

①積極的な商業資本からの運上金・冥加金の徴収(商業からの徴税)

と幕府専売品の拡大

②印旛沼や手賀沼の干拓(新田開発)

③工藤平助の赤蝦夷風説考による蝦夷地探査と開発

④俵物(干しアワビ)などの海産物や銅の輸出など長崎貿易の緩和

等々が主な内容でした。

*「工藤平助」と「最上徳内」

1778年、ロシアのナタリア号が蝦夷地に来航して通称を求め、

松前藩はこれを拒否します。

1783年 「工藤平助」による「赤蝦夷風説考」が献策され、幕府が

これを採用して、出羽の国の北方探検家「最上徳内」が

蝦夷地に派遣され、以降、数度にわたる蝦夷地探査が

行われました。当時の「赤蝦夷」「赤人」は、現在のロシ

アとロシア人を指し、幕府にとって未踏の地であった蝦

夷地(北海道以北の地)に出没したロシア人と蝦夷地の

先住民であったアイヌ民族との通商の実態を把握すべ

く派遣探査させたものでした。

*「伊能忠敬・近藤重蔵・間宮林蔵」
1792年 根室にロシア船来航、海難事故でロシアに保護された

大黒屋光太夫ら3名が乗船しており、エカテリーナ二世

の意を受けて特使ラスクマンが保護者の送還と同時に

通商を求めてきた。幕府は拒否。

1798年 幕臣の「近藤重蔵」が、松前蝦夷御用取扱いに任命され

最上徳内とともに1807年まで4回に亘って蝦夷地探査

に従事し、1798年に、有名な「択捉島」に「大日本恵土

呂府」の標柱を立てました。

1799年 幕府は、東蝦夷地を幕府直轄地としました。

1800年 「伊能忠敬」の蝦夷地測量が開始された。

1802年 幕府は、蝦夷奉行(後の箱館奉行)を設置した。

1804年 ロシアのレザノフ使節が長崎に来航して再度通商を要求。
幕府は再び拒否。

1806年 ロシアは樺太の松前藩会所を襲撃。

1807年 近藤重蔵が西蝦夷地を探査して、西蝦夷地も幕府直轄地

とする対抗策をとった。しかし、ロシアは4月に択捉を砲撃

5月には箱舘奉行所を襲撃します。これに対して、幕府は

従来の懐柔策を変更してロシア船の打ち払い令を発して

上陸を企てたロシア兵の捕縛を命じた。

1808~1809年 幕府の命により「間宮林蔵」が「樺太」を探査し、

樺太が大陸ではなく島であることを確認し、ロシアとの間に

ある海峡(間宮海峡)を発見した。

1800~1816年 「伊能忠敬」は、蝦夷地をスタートに全国を踏査し

本人死亡3年後の1821年に、継承した弟子たちによって

「大日本沿海輿地全図」を完成させた。

 

・・・今週は、ここまでにします。伊能忠敬個人のことは来週以降へ。

 


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