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東京税経メルマガ



武士の暮らし(最終回)(2017/10/06)


 

 

 

 

おはようございます!
東京税経センター顧問の坂入です。

毎朝のメルマガは、硬い税務や経営の話だけを読み続
けると肩が凝ってきます。

週末の朝は、税務の話ではなく、わたくし個人の勝手な
趣味となっています「チャンバラ小説・時代劇小説」から・・・。
興味が無い皆さんにも、「こんな見方もあるのだなー」
と・・・・・斜めに読み流していただければ幸いです。

 

江戸時代の
「武士の暮らしぶり最終回」です。

 

小禄の御家人の暮らしぶりがチャンバラ小説ではよく出てきます。

千代田のお城から遠く離れた、大川(現在の隅田川)の川向う、

「本所(現在の墨田区本所):深川」には、幕臣でも役職の無い、

微禄の「小普請(こぶしん)」と呼ばれる御家人が集中して居住さ

せられていた地域がありました。

 

「本所:深川」は、本来、江戸市中ではありませんでした。

 

大川の川向うは「下総の国」であり、大火の後に江戸の街を再整備

した際に、大川に「両国橋」が架けられて、武蔵の国(江戸市中)と

下総の国が容易に往来できるようになりました。

 

その結果、大火後の市中整備で火除地や通りの拡張等の防災工

事の結果として、川向うの「本所:深川」の下総の国が造成されて

江戸市中に組み入れられ、地方大名の上屋敷や大身の外様大名

の下屋敷、微禄の御家人の居住域とされたのでした。

 

その代表的な例が、忠臣蔵で仇討された「吉良上野介」の本所

松坂町の屋敷です。でも、吉良家が、なぜ、下屋敷でもない本来

の屋敷をこんなお城や市中から外れたところに持っていかれた

のか?

 

この答えは、いずれ「忠臣蔵」のことを「異聞」として書くときに

詳しく書きたいと思います。・・・11月後半から予定しています。

 

本所は、東西に「堅川」(たてかわ:通称塩の道)や「小名木川」

南北に「横川」が開削されました。

 

低湿地だった本所の地を人が住めるようにするため堅川に沿

うように「南割下水」「北割下水」が掘られて、微禄の御家人の

屋敷が定められて、横川と南割下水が交錯する近辺に北中之

橋が架けられて、西側一帯に町屋が形成されるようになります。

 

この「割下水」に居住させられた微禄の御家人は、禄(俸給)だ

けでは一家を養えませんでした。真面目な御家人は、家族で

手内職、例えば「傘張り」「虫篭や鳥籠づくり」「出入りの商人の

帳付」「町道場の師範代」「町人の子供相手の手習い所」等で

一家の糊口を凌ぎ、独身で度胸と腕に自信のある者は、「地

回り(地元のやくざ者)の身辺警護」や「賭場の用心棒」など直

臣にあるまじき生業をしている者も少なくありませんでした。

 

幕府直臣の手内職で有名なのは、下谷御徒組屋敷の「朝顔」

栽培でした。現代の「入谷鬼子母神の朝顔市」はその名残だと

も言われています。

 

前借が重なり、暮らしの糧も行き詰ると「御家人株」を売りました。

分限者の商人の二男や三男で商人に向かない倅に、武士身分を

買ってやる者が出てきます。売ると言っても、物の売買のようには

いかず「借金を返して当分の暮らしが立つ程度の金額で、直臣と

しての家の継承を譲るのです。自分は隠居して、売った先の商人

の息子を跡取りとして届け出るのです。」買った商人はその財力で

継承した息子のために小普請組頭に賂を送って、何らかの役に付

けるように推挙してもらうのです。

 

ここまで落ちるということは、武士社会の崩壊が近いとも言えるで

しょう。

 

 

江戸の武士の暮らしぶりをチャンバラ小説のネタから推し測っ

て述べてみましたが、この辺で終わります。

 

さて、来週以降は、なにをテーマにして・・・・。

チャンバラ小説らしいものを考えてみます。お楽しみに・・・!

29.10.6 金曜  坂入 拝

 


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