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東京税経メルマガ



武士の暮らし(第4回)(2017/09/15)


 

 

 

 

おはようございます!
東京税経センター顧問の坂入です。

毎朝のメルマガは、硬い税務や経営の話だけを読み続
けると肩が凝ってきます。

週末の朝は、税務の話ではなく、わたくし個人の勝手な
趣味となっています「チャンバラ小説・時代劇小説」から・・・。
興味が無い皆さんにも、「こんな見方もあるのだなー」
と・・・・・斜めに読み流していただければ幸いです。

 

 

 

<江戸の武士と商人>4回

 

「浅草蔵前の御米蔵」と「札差」

元来、武士は金銭感覚に疎く、と言うよりも、「武士は金の話はしない」

ものと教育され育ちます。

 

「士農工商」の身分制度に胡坐をかき、例え、無役でも、ご先祖様の、

と言うよりも、関ヶ原や大阪の陣といった何代も前の武功で授かった家

禄(俸禄)が、子々孫々まで何もせずに支給され、働かずして収入を得る

ことが出来る事に、何の疑問も抱かず、暮らしが成り立つはずでした。

 

この状況は、直臣だけではなく、諸国の大名の家臣(陪臣)も同様でした。

 

江戸で生まれ育った直臣の多くは、天領(幕府直轄領)や知行地である

農村の実態に疎く(収穫までの苦労や飢饉への対応など)、経済の基本と

された「米」に対する重要性や有難味も自ずと希薄なものでした。

先々受け取る「蔵米」を前借する形で札差から現金(売り払い予定代金)

を受け取ることも、恥とは思わず、己の家の体面を保つことへの浪費を繰

り返すことになりました。

 

一方では、江戸の街に人が集住し、経済が活性化して、人・物・金銭の

規模が拡大すれば、当然にインフレになり、諸物価が値上がりする一方で

生活のもっとも基礎となる「食糧」の「米」の値段は抑えられたことが、貨幣

代わりの「給与」でもある米の価値が下がることになり、武士の俸禄はご先

祖様が授かった石高のままです。結果、武士は生活苦へとスライドします

が、足りない生活費に対して、担保力が有るうちは札差が前払いしました。

 

武士の金銭感覚に対する無知と武士経済だけの「米本位の重農主義経

済」と庶民の「貨幣経済:重商主義経済」の熟成とのギャップから、「札差」

などの市井の商業金融業者が「利」を得るようになります。

 

吾妻橋をスタートして、大川(上流を荒川、中流域を隅田川、河口付近を

大川と呼びました)を河口に下ると、すぐ右手の「河岸」に掘割が見えてき

ます。「櫛の歯状」に設けられた掘割には多くの荷船が横付けされていま

す。接岸する岸の荷揚げ場を「河岸(かし)」と呼びました、石垣で固めた、

8本の櫛の歯状の掘割に入る荷船は、米俵が満載され、この8本の河岸

それぞれに水門と番所が設けられて、蔵が列をなして建てられています。

 

蔵が建ち並ぶ陸側も3箇所の門が設けられ、番士が監視・検問していま

した。水陸ともに、監視の目が厳しいのが他の一般の河岸と「幕府御米蔵

の河岸」の違いでした。

 

ここに「御米蔵」が創設されたのは、天和6年(1620年)のことで、川岸の

湾曲した部分3万6千坪余に亘って埋め立てられて、掘割は北から順に「1

番堀」「2番堀」と称され「8番堀」までつくられ、大川に面した「河岸」の全長

は344間(約625m)という、この長い河岸に沿って67棟の米蔵が置かれ

ていました。

 

⇒現代の地図からいえば、浅草税務署と旧蔵前国技館、現在は水処理

センターや都立蔵前工業高校、蔵前警察等々の近辺でしょう。

 

・・・今週は、ここまでです。・・・

 

 


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