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江戸四宿(19回)(2017/08/04)


おはようございます!
東京税経センター顧問の坂入です。

暑中見舞いと言いますか残暑見舞いと言いますか、東京は

梅雨が明けたら連日曇天とゲリラ豪雨が続きます。

被害にあわれた方々に、心からお見舞い申し上げます。

 

相変わらず、江戸の話を続けます!

 

江戸四宿の三

<内藤新宿:甲州道>

 

江戸四宿(品川・千住・板橋・内藤新宿)の一つである「内藤新宿」は、

信濃の国(長野)高遠領、内藤丹後守の屋敷があったことから「内藤」

、当初の甲州街道の初めの宿場は「高井戸」に有って、後に四谷大木

戸を出てすぐの場所に新たに創設された宿という意味でと「新宿」、

併せて「内藤新宿」と名付けられました。

 

現在の、新宿御苑を含む広大な屋敷地の一部を、幕府が宿駅を開設

するときに上地(あげち:領地を没収すること)したことから、この宿場

の名前の由来となっています。

 

甲州街道を江戸を出て最初の宿場ですが、当初は、この地ではなく

「高井戸」に設けられました。日本橋から約四里(16キロ)と、他の三

宿より遠くに設けられていました。この結果、江戸入りの前の旅装を

整えるには不便だとの苦情が多く寄せられました。

 

諸大名や江戸庶民、地元の名主等々から多くの請願が出されて、元

禄11年(1698年)に内藤家敷地を上地して新しい宿場を開くことを

決め、翌元禄12年に(1699年)「内藤新宿」として整備されました。

 

前述のように、内藤家の屋敷地に新しい宿場を開いたから「内藤新宿」

なのです。

 

宿場名や地名は前述の要因で定められましたが、当時の江戸の西

のはずれであった「四谷大木戸」(現在の新宿1丁目)から「追分」

(現在の新宿3丁目交差点付近)までの街道沿いに東西1キロ程度の

宿場が設けられたのが始まりでした。

 

当初は、宿場に遊女を置くことは禁じられましたが、幕府は「助郷」の

費用を捻出するという目的で「飯盛旅籠」を黙許したことが、この宿場

の、盛り場として急激な発展につながりました。

 

甲州街道は、もともと江戸表と武蔵の国、甲斐の国、南信濃の国と甲斐

から都への木曽道を結ぶ要路として繁栄し、その結果、傳馬人足や荷駄

人足が多く住んでいたことから、

 

「内藤新宿馬の糞 中に菖蒲咲くとは しおらしや」と、

 

戯れ唄で揶揄されるように街道は馬の糞が乾燥して風に舞い、旅籠に

は綺麗な飯盛り女が客を引くという、粗野で猥雑な遊所として隆盛しま

した。

 

しかし、許可なく(黙許です)飯盛り旅籠が増えて、妓楼化していきまし

た。目に余ると、「官許の吉原」による「無許可の遊女の取り締まり」の

町奉行への願いの対象とされ、度々、摘発されました。

 

享保三年(1718年)に一度宿場は廃止されましたが、明和九年(17

71年)に再開されます。

 

幕府の直臣(旗本)が失策をして、或は素行不良で、「甲府勤番(幕府

直轄地勤務)」を命じられ(一種の左遷)た旗本・御家人は、この内藤新

宿の旅籠で最後の送別(今生の別れの宴)を開いてもらうという、チャン

バラ小説でのお決まりの場面が繰り広げられます。

 

素行不良の直臣や失策した役人や、時の執政に嫌われた役人などが、

一旦、甲府勤番を命じられると、二度と生きては江戸に復帰できません

でした。

 

・・・次回は、最後の「千住宿」です・・・

 

 

 

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