おはようございます!
東京税経センター顧問の坂入です。
毎朝のメルマガは、硬い税務や経営の話だけを読み続
けると肩が凝ってきます。
週末の朝は、税務の話ではなく、わたくし個人の勝手な
趣味となっています「チャンバラ小説・時代劇小説」から・・・。
興味が無い皆さんにも、「こんな見方もあるのだなー」
と・・・・・斜めに読み流していただければ幸いです。
江戸四宿とは?
徳川幕府による街道や海路などの整備が進み、街道には、一里塚、
並木道、渡船場、川関所、橋番所、宿駅、傳馬宿、本陣や脇本陣など
の旅籠や木賃宿(自炊用の燃料代を支払う意味)等々、人の移動や
物流の環境が大幅に改善されました。
江戸の防備上架橋や渡し場が制限される河川も多く存在しましたが、
それは、幕府の体制維持のためであり、関所や川番所では「入り鉄砲
・出女」が厳しく監視され、河川への架橋も制限され、軍事上、治安上
の制限の場となっていました。
「出女」(人質として江戸に常住させられた大名の正妻が国元に逃げ出
すこと)が厳しく監視されたことから、必然的に庶民の遊山行脚も男性中
心となりました。旅先での旅籠は食事つきの宿でしたが「飯盛り女(遊女
の一種)」を置いて、一夜の春を売る「食売旅籠」が多く出現しました。
この種の旅籠が集中して特に有名なのが、江戸の出入り口にできた「江
戸四宿」でした。
江戸時代幕府が公認した遊里(売春を目的として、世間から隔離された
遊女の街:妓楼)は、「浅草田圃の吉原」だけでした。幕府開闢時は日本
橋にありましたが、街の拡大と共に大火を機会にお城の側から、浅草田
圃に移転させられました。
ところが、幕府公認の遊里は、京都の島原遊郭を模して造られ、遊女の
格が高く、費用も高額なことから、庶民にとっては高根の花となり、無許
可の遊里が江戸周辺に暗黙の内にできました。例えば、深川の櫓下や
根津権現門前町などでした。
このような状況下で、堂々と食売旅籠を営業したのが、今回のテーマの
「江戸四宿」です。江戸の府内(通称:朱引内)として町奉行の行政範囲
内から外れた、一歩江戸を出た場所だということからのようです。
東海道筋の「品川宿」、甲州街道筋の「内藤新宿」、中山道筋の「板橋宿」
日光街道と奥州街道筋及び脇往還の水戸道筋の「千住宿」の四か所です。
本来は、参勤交代で諸国の領地から所領の石高で定められた軍装(共揃)
で江戸に入府しますが、最後の宿場であるこれらの四宿で一旦宿泊、或は
休憩して、旅の汚れを落として、途中、経費節減のため員数を削るなどの、
端折ってきた共揃えを、江戸からの補充で定め通りのものにして大名行列
としての体制を整えて江戸の街に入りました。
江戸の中期以降は地方の各領地はどこも財政ひっ迫状態で、国元を出る
ときは定め通りの石高に応じた軍装で出発し、国境を出る際に、一部を国
元に帰して、途中の経費を節約しました。この結果、前述のように江戸に
入る前の四宿で、江戸から不足の員数を呼び寄せて、石高に応じた大名
行列としました。
一説では、例えば、加賀前田家の場合定められた共揃えは約4千名でし
たが国境を出るときに千名を返して、3千名で江戸の板橋宿まで旅をして
板橋宿で江戸府内から不足人員の千名を補充して、身なりを整えて加賀
百万石の威を誇示した大名行列として入府しました。それでも、3千人と
いう総勢でしたので、参勤に要した費用は莫大なものとなりました。
大名は、参勤交代の時期と経由する街道を事前に幕府に届け出る(一説
では、経由する街道は幕府によって指定されていた)ことになっており、江
戸庶民は、この江戸に入府する諸国の大名行列を見ることを楽しみにし、
その共揃えや装備など勝手に比較し、評価を下して番付表などを作って、
楽しんでいたとも伝えられています。
・・・江戸四宿の具体的内容は、来週以降へ、来週は、
先ず、通過する大名の数が最も多かった「品川宿」・・・
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